企業経営者は学歴についてどう考えているか?
学校に通った履歴→教育にいくら費用をかけたのか?
学校を卒業した履歴→費用をかけて最後まで運用したのかどうか?
難関大の難しさのトリック
難関大のどこが難しいのか
それは、義務教育+高校の知識を用いつつ 授業や受け身学習そのものからは得られない考え方を必要としているところにある。
つまり、得て捨てるような暗記と処理上手な勉強で高校まで来たような人にとっては
これまで得た全知識と題材が変わっても解法によって答えを導き出すという力が必要になるので
それまでそのような取り組みをしなかった者にとっては
何知れぬ壁となって現れ
そこに難しさを感じるのである。
学校教育の進度と今後の方針
学校の中での教育であったり、勉強というのは進度が一定で
教育内容について
あらかじめ知っていようとも、先生より詳しかったりしようとも、意義や意味がわかるわからないでいようとも、一斉に行われる
仮に、経営面での効用を考えるのならばその個人に合わせた教育を施すのが最も効率が良くなる
が、一方で全体協調を必要とするときにそれらは弊害になってしまう。
どっちつかずや方法論が先行きし、どれを取ってもメリットデメリットが両在するのならば
過去の教育と結果を見つめ直し、何が良くて何が成功して、何がダメで何をすべきではなかったのかを導き出し
そこから現状としてどう答えを出すのかが必要なのかもしれない。
それがもし、自身にとってさしせまった問題になったとしたらそこを洗い出すとこから始めることにしたい。
日本の神風特攻から見る学歴の呪い
なぜここまでに、人々に「学歴の呪い」がつきまとうにもかかわらず学校制度はずっとそのままなのか
学歴の呪い
難関大出身 でも、○○は出来ないでしょ?
普通の大学 大卒は当たり前
高卒 大学に行けなかった人
○○じゃなくても○○
日本の学校教育において、中学までは義務教育であるが、高校大学へは入試を経て入る必要がある
それには、多大なる労力をかけて試験に挑む必要が出てくる。試験も1年に1回のため。
日本が旧帝国大学を設立した背景には、明治時代 他国からの黒船を受けて技術力に差を見せつけられ、国ごと乗っ取られかねないという時に国の総力をあげてのすさまじい研鑽の名残だとも思われる
そのため、積極的に海外の技術に打ち勝つために取り入れ研究し、それ以上にものを早急に作らなければならないという焦燥感が
それを手っ取り早く学生に学問を乗せて国力増強を成し遂げる方法暗記偏重のなのではないかということである。
その方法は、ある文脈においては成功した(してしまった)。
成功した文脈は、国を支配されなかったこと。成功しなかったのは不平等な条約を結ばれてしまったこと。
また、日本のビジネスでは作成する技術は先行しているのに、世界市場では狭く選ばれ、
世界の大学ランキングでは暗記偏重がモノをいった時代には名を馳せても、学問の本質に迫るものよりかは実用化が重視されるため研究論文でもランキングをさげてしまっていると思われる
取ってつけた結論を言ってしまえば、日本の学校の制度は、国の世界的位置付けや政治的、国際関係を如実に反映するもので、学問などの先人が積み重ねた来た叡智を享受しつつも、これからを切り開くため日々深く知り、理解することでよりよくそして次につなげていくというような、人が社会で生み出した美からは、前述により離れてしまうのである。
負けるくらいなら命さえ惜しまないとそんな気概が教育に織り込まれ それを為しても自分は幸せにはならず (神風特攻や武士文化) 命を惜しまずやらなかったものは、ならずものだという雰囲気が人々を悩ませているのかもしれない。
後味をよくするために、光を指し示すなら
人というのは何かが晴れれば、他の悩みというのが心にひっそりとやってくるのであり、ヨーロッパはEU体制による不安や北米は人種など様々な気がかりを抱えていて
般若心経は、色即是空と説いた。
国際共通大学試験
International Common University Exam
もし、そういったものがあるのならばその試験を受ける受けないそれを利用するしないにしても、
そういった制度や仕組み作りや枠組みを作ってみることで
なんとなく直感としてこれからどうすればいいのかを差し迫った自助と公助として直接与えられないものにとっては、汎的な指標になるのではないか?ということ
価値ベースの民間学校
学位はないけど、だいたいどんな英文も読める
学位はないけど、たいていのことはプログラムでかける
学位はないけど、俯瞰的な人生計画・お金の計画・目標がある
そんな従来の学をありきで暗記中心で間接的に実用性を学ぶのではなく、
これから”使う”をベース(=価値)に重点をおいた学校を作ってみるのはどうであろうか?
十分に実用ベースで自身の価値を高めつつ、いつだって既存の路線に復帰(高卒認定後→大学に通うだとか)
やはり選択肢が義務教育しかないのはある程度、拘束が効く分不自由な部分もあるのではないか?ということである。
それならいっそ既存の文部科学省の学校というものをリファクタリング(プログラミング用語:実質はそのままでよりよく使いやすくするような意味で使用)して、これだけやれば、小学校・中学校・高校・大学に通わずともよりよく生きる社会人としての基礎をつけられるよね
というような、プログラム(=カリキュラムとか)を組めたりするのはどうだろうか?と、思う。
なので、今後は具体的に、既存を残しつつどうやってあるものを活かしつつ新たな選択肢を作り出し、世の中のシステムとして構築していけるかどうかを考えていきたい。
就職への王道は学校だけなのか
就職は何のためにあるか、
親の手を離れ自身によって自身を養う手段だとすれば、
その自身を養う場所としての就職がある。
それまでの道として、なぜ学校というものがここまで幅を効かせているのか?
なぜ、学校という場所が就職への道になってしまうのか?
それらの答えをうまく答えられない大人がいないのは、もうこの世界には(仮に日本だとすれば)学校教育を受けていない現存の人がほとんどいないからだ。
なので、学校教育を受けた人、受けていない人の半々の意見を聞いて決めるなんてことはほぼほぼ不可能なのだ。
そういうわけで、なぜ学校ができたのか、元々どういうものであったのかを調べるわけであるが、
おおまかな流れで行くと(場所は12~13世紀のヨーロッパとか)、
生活に困らない裕福な貴族がこの世の仕組みについて知りたがる
↓
貴族同士でチームを作る
↓
そういう場所を作る
↓
学校(または大学)
っぽい感じである。なるほど、貴族の趣味か。
それと、お金は起源をたどれば、人と人との間の約束の可視化したようなものであるらしい。信頼は可視化しない約束みたいな。
就職での正攻法を明文化すると就職先の人が通ってきた道と同じような道を歩むことである。逆にそれ以外の方法だと、その人が何をするか、何ができるのかを推察できないため採用しにくいという構図だ。
そういうわけで今の世界では学校が王道なのでは?ということである。
で、本筋は学校に変わる手段はないのかという話である。学校がどうデメリットなのか通う人、通った人にとっては自明なので省略。
ようするに、就職への王道とは、
就職先への信頼を得られるような証明を獲得することと、就職先の人が仕事をするにあたって必要な経験であったものを完璧ではなくともあらかじめ経験すること。
この2つさえあれば学校は不要だと言える。
今回は、就職への王道が学校だけではないことと、学校にいくことだけが絶対正義であり、逸脱はタブーみたいなものを解体したよっていうことで締めくくりたい。